山田大記選手引退セレモニー
11月30日(土)2024明治安田J1リーグ 第37節 FC東京戦~「だれかのため」をはじめよう。協和医科器械・アルバースマッチ~の試合終了後、山田大記選手の引退セレモニーを行いました。
山田大記選手コメント
ハチ君(八田直樹)、ゾノ(金園英学)、(小川)大貴が出てきたときには涙が出なかったのですが(笑)、前田(遼一)さんが出てきたら思わず泣いてしまいました。今日出てきてくれた選手だけではなくて、本当にたくさんの素晴らしい選手、そしてスタッフと共に戦わせてもらいました。小さい頃からずっと憧れていた、このヤマハスタジアム、そして大好きなジュビロ磐田というクラブ、そのクラブで10番を背負わせてもらって、戦い続けられたことは僕にとって本当に幸せなことでした。
サッカー人生、楽しいこともたくさんありましたが、辛いことや悲しいこともたくさんありました。だからこそ、どんな時も支えてくれる家族、チームメイト、スタッフ、そしてサポーターの皆さんの力が僕にとって本当に大きなものでした。
今年は、久しぶりに怪我無く思い切りサッカーができました。昨年、一昨年は怪我に苦しみプレーできる期間も少なく、なかなか100%の力も出せず、歯がゆい時間を過ごしていました。そんな中で、久しぶりにJ1の舞台で、レベルの高い選手と自分の100%の力をぶつけてプレーできる時間は、本当に幸せでした。ただ、100%でプレーできるからこそ、今の自分の100%はこのくらいの力なんだな、ということも感じながらピッチに立っていました。僕はもうJ1で主力としてチームを引っ張るそんな実力は無いんだな、ということを感じていました。
引退を決めた理由はひとつではありません。クラブの方向性など色々なことが重なって、このタイミングでの引退になりました。ただ、今皆さんにお伝えできるのは、本当に幸せなサッカー人生だったし、今このタイミングでの引退に後悔は無いということです。
皆さん、“プロサッカー選手
山田大記”とのお別れ、心の準備はできていますか(笑)。正直、今日はすごく大切な試合だったので、僕自身はまだあまり実感は湧いていません。しばらく経ってからすごく寂しくなったりするのかもしれませんが、今はとても満ち足りた幸せな気持ちでいます。
色んな時期があったからこそ、家族には本当に辛い思いをさせたし、悲しい思いもさせてしまったと思います。そんな中でも、一番近くで支えてくれた妻には本当に心から感謝しています。両親や家族の支えが無ければ僕はここまで元気にサッカーを続けることができなかったと思います。ありがとうございました。
本当に、僕は人に恵まれたなと思っています。素晴らしい選手、スタッフ、サポーターとこの大好きなクラブでたくさんの時間を過ごすことができて、本当に幸せでした。先ほど中山(雅史)さんや、名波(浩)さんからも言葉がありましたが、これからの人生もサッカーくらい情熱をかけていきたいなと思っています。そして、この大好きなクラブにどういう形かは分かりませんが、ぜひ関わっていきたいなと思っていますので、また皆さんにもお会いできるのではないかなと思います。
後ろにいる選手たちには、まずは1年間ありがとうという思いと、そして来年以降このクラブをよろしくお願いしますということを伝えたいと思います。こんなキャプテンでしたが、一年間一緒に戦ってくれてありがとうございました。
改めて、僕のサッカー人生に関わってくれた全ての方々、本当にありがとうございました。最高に幸せなサッカー人生でした。ありがとうございました。
山田大記選手引退会見
皆様お集まりいただき、ありがとうございます。クラブからもリリースがあり、先ほどセレモニーもしていただいたように、今シーズン限りで引退することになりました。本当にたくさんの方に支えていただき、メディアの皆さんにもとてもお世話になりました。まだ試合があるので、しっかりと来週頑張りたいと思っているのですが、皆さんから何かご質問があれば色々とお話しさせていただけたらなと思います。よろしくお願いします。
――セレモニーで色々な方からのメッセージがありました。ジュビロで過ごした長い時間の中で、何が一番胸にきましたか?
やはり前田(遼一)さんが出てきたときにすごくグッとくるものがありました。たくさんの選手とプレーさせてもらった中で、実は一緒に苦しんだ経験の方が印象に残っていて、今年もそうですけど、厳しい状況苦しい状況の中で、必死にみんなでどうにか良い方向にチームを持っていこうと共に戦った仲間との絆というものが、自分にとっては宝物だなと思っていて、そういう時間をたくさんの選手と過ごせたことが印象に残っています。
――引退を決断したのはいつ頃ですか?
10日くらい前ですね。クラブとも話をして、クラブの意向も踏まえてではありますが、僕自身お話しさせていただいたような理由が一番大きいです。今年100%でやれていた分、久しぶりにピッチで一生懸命全力にサッカーができることも、試合で100%を出せることもすごく幸せだった一方で、今持つ自分の100%というものが、このくらいの力なんだなというのも実感しながらやっていたので、そこがひとつ大きかったですね。
――「J1の主力としてチームを引っ張る力がないと感じた」とおっしゃっていましたが、具体的にはどんなところで感じましたか?
個人で相手に勝てないところですね。話が一回逸れてしまうのですが、横さん(横内監督)にこの引退を伝えたときに、すごくびっくりもしてくれたし、まだまだやれるんじゃないかっていう声も掛けてもらいました。同時に、シーズン途中からサブに回ることが多かったところを横さんも少し気にしてくれていたんですよね。「本当にギリギリでスタートで使うかどうかというのを迷っていた」ということも横さんから言ってもらって。そういうふうに気にはかけてくれたのですが、僕としては横さんの起用がサブスタートになったから中心ではやれないんだなと思った、ということは全くないです。自分自身がピッチでJ1の選手たちと対峙する中で、個で目の前の相手に勝てないというところですね。僕は攻撃の選手で、元々守備はそんなに得意ではないので、若いときから守備では負ける場面があったのであれなのですが…。攻撃でパッとボールを持ったときに、ちょっと取られる気がするとか、グッと相手を剥がすときに仕掛けて身体をぶつけられたときに、そこに耐えて相手の逆を取るとかっていうのができるようなフィジカルの状態でなく、ボールを持ったときの感覚が若いときの「来るなら来い」というものが、「来られないようにプレーする」と自分の中で変化してしまったのがすごく大きかったですね。もちろん経験とかもありますし、自分の中でサッカーについての理解が進んでいる部分も年齢とともに感じてはいたので、そういう中で上手くポジショニングや判断というところで、そこを補いながらチームの力になれたらなと思ってやってはいましたが、自分の中ではそういうのはひとつの誤魔化しという感じがして、目の前の相手に勝てないのにチームの中心としてやるというのは難しいなというのは練習でも感じる場面がありました。
――今日の試合が寂しくもヤマハスタジアム最後の試合で、この場所で最後のゴールとなりました。PKのシーンを振り返ってください
まずはこの最後の試合で、自分のゴールで勝つことができるという、最高のヤマハスタジアムでの終わり方ができるのは想像していませんでした。すごく色々な巡り合わせもありますし、チームメイトの力もあるし、サッカーの神様がいるんだなと最後の最後で感じました。PKに関してはいつも試合前日の練習後にPKの練習をするのですが、僕はいつも蹴らないんですね。ただ、ジャメ(ジャーメイン良)に「大記君、蹴っておいた方が良いんじゃない?」と言われたので昨日は蹴ったんですけど、そこで「どういう状況だったら蹴りますか」と言われて。僕は「プレッシャーがかからない状況だったら蹴る」と答えたんですね(笑)。これで残留が決まるとか、勝負が懸かった瞬間では蹴らないけど、「2対0とか、1対0だったらどうします?」と言われて。「残り時間が少なかったら蹴ろうかな」と冗談で話していました。あの前にFKの判定になったときから自分に蹴らしてくれと周りには伝えていました。あまり僕はFKを蹴ってきていないですけど、最近練習で蹴る機会があって少しフィーリングが良かったので、FKでも蹴ろうと思っていたし、PKになった瞬間にも自分で蹴りたいなと思いました。その中でジャメが今日試合で足を痛めていたこともあって、「大記君、お願いします」と言ってくれたので、僕が蹴らせてもらいました。
――PKのシーンは、ずっとジャーメイン選手が直前までボールを持っていました。
最近はPKの場面では必ずVARの長時間の介入があります。そこで多くのチームはGKがベンチに行って、対戦相手のPKの映像やデータをインプットしてからPKに臨むというのがよくある光景だったので、昨日も自分が蹴ることになったらという話をしていたときも、「自分が蹴るにしても、ジャメがギリギリまでボールを持っていてくれ」と。「ジャメがボールを持っていれば、相手が分析するときに、基本的にはジャメのデータをインプットする。そこでキッカーが代わって自分が蹴る」ということをジャメに伝えていたので、そういう作戦だったんですけど、相手のGKの選手はベンチに行っていなかったですね(笑)。結果として全く効果はなかった、「あれ、行かないな?」と。「これあんまり意味ないな」と思いながらでしたけど、結果として入ってよかったです(笑)。
――ジュビロでプロ選手になって、ジュビロで現役を終えましたが、最後はジュビロでという思いはどこかにあったのでしょうか?
そうですね。やっぱり実際のところ、クラブの方向性のところも、今回の引退のタイミングに関してはあったんですけど、僕の中で、他のクラブでプレーする選択肢は、今のタイミングでは無かったですね。他のクラブで数年プレーをして他のクラブで引退するのは、僕の中でしたくなかったというよりはイメージできなかったというのと、自分自身、先程お話ししたような理由で、アスリートとして高みを目指す挑戦というものは終わったんだなと今年自分自身が実感していました。もちろんサッカー選手として色々なチャレンジ、挑戦があって、長くやることもひとつの挑戦だし、色々な挑戦があってしかるべきだと思うのですが、僕自身が最も情熱を燃やせる、ワクワクする、“自分自身が上を目指す"という挑戦は、もう終わったと今年は実感していたので、クラブと話し合いをした結果として、ここで引退したいし、ここで身を引こうという気持ちを固めました。
――ジュビロの10番は、山田選手にとってどんな番号でしたか?
僕はたまに夜にぱっと目が覚めたときに、自分がジュビロにいて、10番をつけてピッチに立っていることが、信じられなくなるような瞬間がありました。そのくらい僕にとっては夢の世界にいるような時間だったなと思います。やっぱり小さい頃からジュビロを見てきて、自分も育成組織に身を置かせてもらって、本当に特別なクラブだし、10番というのも(藤田)俊哉さんを見てきてもそうだし、(成岡)翔さんや俊さん(中村俊輔)といった、素晴らしい選手たちがつけてきたというところも含めて、自分にとって特別な番号だったので、そういう番号を長くつけさせてもらって、このクラブでプレーできたことは本当に幸せな時間でした。
――PKの瞬間、右足で蹴るような体勢から左足でシュートしました。どちらの足で蹴るかは、どのように決めていたのですか?
実は去年と全く同じ蹴り方をしているんですけど、(相手GKが)データをインプットしに行かなかったところと、カテゴリーも違うので、あの蹴り方は相手選手が予測していることはないだろうなと思っていました。一番自分が得意な形ですし、最後のチャンスだったので、悔いが無いように、得意な形で蹴ろうかなと決めて蹴りました。あの形は、今だから言えますけど、コースを途中では変えられない蹴り方なので、最大限相手に逆のコースを見せるような軸足の置き方をして、あとはタイミングだけ外して蹴ることだけを意識して蹴りました。
――緊張はありましたか?
結構、動悸は激しくなりましたね(笑)。でもさすがにサッカーの神様はここで僕にPKを外させないだろうとは思いつつ、それでも僕は結構PK失敗してきていて、大学最後の試合でもPKを外しているし、高校のときも外しているし、結構大事なところでPKを外してきているサッカー人生だったので、最後にまたそうならないかなと思ったんですけど、試合直後のインタビューでも言わせてもらったんですけど、そのときにゴール裏のサポーターを見ました。本当に他力なんですけど、みんなの思いが決めさせてくれるだろうなと、僕は心から強く感じて、自分を信じて、落ち着いて蹴ることができました。
――ピッチに入るときに監督が「ひっくり返して帰って来い」と声を掛けたとのことですが、PKのタイミングでその言葉は頭をよぎりましたか?
PKの瞬間はよぎってないですけど、横さんの言葉で改めて気合いを入れてもらったと、ピッチに立った瞬間に思いましたね。昨日、一昨日とシュート練習をしていて、少しふわふわしているというか、自分自身ちょっと地に足がついていないような感覚がありました。最後のヤマハでの試合になるので、色々とそわそわしている部分があったんですけど、横さんのその言葉で、何が何でも勝点3が必要というところで、引退モードからもう一回ぐっと戻してもらったという感覚はあって。そこで気合いが入ってピッチに立てたので、比較的戦況を見ながら、自分が最後ということを感じる時間もなく、ゲームに集中してやれていたと思いますし、先程お話ししたようにVARの時間は多少時間が空いたので、色々考える時間がありましたけど、それ以外の時間は特に最後だからどうのこうのとかはなくて、この90分の中でどうやって勝点3を取るかを考えながらプレーできたかなと思っています。
――最終節をどういう試合にして、どういう結果にしたいですか?
僕自身の最後という意味では、今日あまりあるゲームをチームメイトにプレゼントしてもらったと思っているので、自分自身がどうのということは全くないですね。ただクラブとしてこれまで積み上げてきたこと、何度もJ2に降格しながら這い上がってきたことを考えると、何が何でもJ1に残りたいという気持ちは当然のことながらチーム全員が強く持っていると思います。なので他力ではありますが、自分たちができること、まず2点差以上で勝つというところをしっかり準備をして掴み取りたいと思います。
――ジュビロでタイトルという目標を掲げていた中で、それを成し遂げることはできなくても、ジュビロでこれだけ長くプレーして良かったと思うのはどんなところですか?
良かったことしかないですね。好きなクラブでやれることがサッカー選手として幸せなことだなと感じていたし、先程引退セレモニーで映像も出してもらいましたけど、僕は入団会見のときに、日本代表になってワールドカップで活躍すること、海外のトップリーグで活躍すること、ジュビロ磐田でJリーグ優勝すること、その3つを目標としてサッカー人生を歩んでいきますという話をさせていただきました。その中で、代表や海外という夢が先に途絶えた、そのときに僕はちょうどドイツから帰ってきたタイミングで、すごく喪失感がありました。一年くらいは夢が叶わないというか、海外は年齢的に難しいし、代表も難しいという現実を受け入れきれずに、モヤモヤしていた時期があったんですけど、ジュビロ復帰が決まったときに名波さんが全部分かってくれていて、「お前は今色々な気持ちがあって、心の整理もできていないと思うけど、このエンブレムを胸に戦う以上は何が何でも100%クラブのために戦ってくれ」と言ってくれて。その言葉を胸に自分の中でやってきましたし、1年ほどして、自分の中で整理ができた後は、このクラブのためにという思いが自分を突き動かしてくれて、前に進む、挑戦する原動力になったので、そういった意味でも自分が好きなクラブ、生まれ育った街にあるクラブでプレーできて本当に良かったと思います。
――今後ジュビロとどう関わっていきたいと思っていますか?また、子どもたちに夢を与える事業も行っていますがそういった部分も含めて今後のビジョンは?
クラブとは、僕からも関わっていきたいですという話をさせてもらっていますし、クラブからもぜひ残ってほしいと言ってもらっているので、まだ具体的なところは詰めていないですけど、クラブには何かしらの形では残してもらえることになると思います。僕自身は、一回ゆっくりしたいなというところもあるので、わがままですけどクラブ側にもフルタイムではなくて、そういった感じで(笑)という話をさせてもらっています。
そして、NPO法人を立ち上げて本格的に子どもたちをサポートするような活動をしていて、そこはしっかりこの2、3年で形にしたいと思っているので、そこをやりつつ、クラブにも携わらせてもらいながら、ゆくゆくはこのクラブをより良いクラブにしていくということを、今たくさんの方が色々な思いを持ってやっていますけど、僕もその仲間に加わりたいなという思いは強くあるので、引き続き関わらせてもらいながら、このクラブに違った形で貢献できるようにしていきたいと思います。
――チームのためにという思いが山田選手の軸になっていると感じます。
ここ数年は、自分がどうこうよりもクラブのためにという思いが強かったんですけど、それは、何て言うんですかね…。自分としては救いだったというか、海外から戻って夢が途絶えた、もちろん年齢は関係なく目指せると思うんですけど、もちろん自分の衰えも感じていたり、状況とかも客観的に見たりする中で、その夢を叶えるのは難しいなと思ったときに、燃え尽きそうなところで最後の情熱の火を灯し続けられたのはこのクラブがあったからです。チームのために、という情熱を燃やす材料が残っていたこと、本当にこのクラブに感謝しています。降格など、チームの成績で言うとなかなか難しい十数年でしたけど、それでもクラブに関わる先輩方やチームメイトから残してもらったものはたくさんあって、結果が出ない時期でもこのクラブのために魂を懸けて、情熱を燃やして戦ってくれた監督やスタッフ、選手がたくさんいて、そういう人の思いをしっかりと未来に繋いでいきたいということは考えながらプレーしていました。ジュビロはよく「仲が良い」と言われて、勝てない時期はそこをネガティブに捉えられてしまうこともありますけど、本当に仲間のことを大切にするとか、仲間のために尽くすとか、必死に戦える、人を大切にするということは、サポーターも含めてこのクラブの本当に良いところだなと思っています。そのクラブが持つあたたかさはこれからも繋いでいきたいと思いながらピッチに立っていました。細かいところですけど、新しい選手が入ってきたときに無条件にその選手を受け入れて、仲間として、外国籍選手であっても、力の足りない若手の選手であっても、仲間として無条件に受け入れて、仲間として大切にしてみんなでやっていくということが、僕が受け継がせていただいたジュビロの良さだと僕自身思っているので、そこはなるべく繋いでいこうと考えて、プレーや生活をしていました。
――改めて残留への思いは?
今クラブが進んでいる方向は間違いなくいい方向だと思うので、横さんが来てくれて、俊哉さんが来てくれて、色々なものが変わって今良い方向にも進んでいると思います。J2に落ちて、ということを繰り返してしまうと、また1からやり直しになってしまうので、降格がクラブづくりを難しくしてしまうなと身をもって感じていて。これまでも継続できていればもっと良い方向に行けたんじゃないかということもありましたし、その中で降格によって断ち切られ、また0から、1から作り直さなければいけないということを繰り返してきてこの状況に立っています。J1に残り、積み上げてきたものの上にしっかり自分たちが上積みしていくということをやるためにも、今年はどうにか残留というものを掴み取りたいなと思っています。
――大きなプレッシャーが懸かる場面でのPKでしたが、蹴りたいという意思を持ったその想いはどんなところにありましたか?
FKの段階で、「俺に蹴らせてくれ」と周りにも言っていたので、PKになったときも同じ気持ちでしたね。得点王争いもあるので、ジャメがどうしてもと言えば譲っていたかもしれないですけど、自分自身がその責任を背負うべきじゃないかなと思ったところもありました。考え過ぎかもしれないですけど、仮に今日のPKを外すということをそういう事実を他の選手が経験したときに、今後のキャリアにもネガティブな影響があるんじゃないかなと思って。ジャメとかなら大丈夫だと思うんですけどね、19点も取っているし(笑)。なので自分がそこの責任は背負いたいと、そう思いました。
――結果的に次につながる得点になりましたが、ゴールに入ったときの気持ちは?
嬉しかったと言うか、ホッとしたという気持ちが一番でした。来年自分がいないということが決まっているからこそ、自分のプレーで降格が決まってしまったときにその責任を取れないと言うか、誰も責めないと思いますけど、無責任になってしまう気がしていていました。自分としては、ヤマハ最後の試合で、来年はプレーヤーとしては身を置かない、ということが決まっている立場とはいえ、そこでしっかり責任を果たすことができてすごくホッとしました。
――改めて海外挑戦したことへの思いは
ご存じの通りかもしれませんが、ドイツに行って1年目に昇格ギリギリのところで失点をして、僕たちはブンデス1部に上がれなくて、そこで上がっていたら変わっていたかなという気持ちもあります。今思えば実力があれば個人でも上がれるし、自分には及ばなかった舞台なのかなと感じるところもあります。3年目は途中から試合には出ていましたけど、すごく自信を失っていたので、そこで自信を失わずやれたらどうだったのかなと思うこともありました。ただそのメンタリティーも含めて、自分には力が足りなかった舞台かなと感じています。僕は比較的、物事をポジティブに捉える方なので、その分ジュビロで長くやれたし、今振り返ってみると自分で海外に挑戦してトライしてダメだったので、悔いはありません。ここで長くやらせてもらえたことは何かの巡り合わせで、自分にとってすごく幸せなことだったので、そこに後悔や“たられば"みたいなことはないですね。
――後藤啓介選手や伊藤洋輝選手、古川陽介選手などジュビロから巣立ち、海外に挑戦している選手も多くいますが、どんな期待を抱いていますか?
その3人とも一緒にプレーをさせてもらって、可愛い後輩で3人とも今回のことで連絡を取ったんですけど、「僕の夢を」みたいなことは全く思わないですね。それぞれの夢や目標を一生懸命追いかけてほしいし、この世界ではそれが叶うことも叶わないこともあります。挑戦を諦めなければいけない瞬間もありますが、僕みたいに引退する瞬間に悔いがないように、精一杯チャレンジしてくれればいいなと思います。
――ジュビロのレジェンドとして活躍してきましたが、ジュビロを離れていた高校や大学の期間は山田選手にとってどういった期間でしたか?
僕は幼少期からジュビロに憧れていたのですが、そんなに高校、大学はジュビロの試合は見ていませんでした。大きな転機になったのは、松浦(拓弥)がゴールを決めた2008年でした。大学1年の終わりくらいだったんですけど、あのときジュビロが初めてJ2に降格するかもしれないと思ったときに、すごく嫌だと思ったし、どうにか頑張ってほしいと思って、同級生でもある松浦の活躍でJ1残留を果たしたあの試合を見てジュビロを応援しているときに、自分はすごいジュビロが好きなんだなと感じました。
それまでは、ジュビロが近くにあって当たり前の存在で、ユースにも上げてもらえずに高校に行ったりしたので、別にネガティブな気持ちはなかったですけど、特別「戻るぞ」という思いは無くて。ただ、あの入れ替え戦は印象的でしたし、僕のジュビロへの思いに気づかせてもらった経験でした。クラブからオファーを貰ったときはすごく嬉しかったし、考えた末ではありましたけど好きなクラブでやりたいなという思いで、ジュビロを選ばせてもらいました。