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八田 直樹選手 引退セレモニー・記者会見

イベント

11月4日(土)2023明治安田生命J2リーグ 第41節 水戸ホーリーホック戦~遠州鉄道80周年記念マッチ~の試合終了後、八田 直樹選手の引退セレモニーおよび記者会見を行いました。

引退セレモニー

引退セレモニー 挨拶

引退セレモニー 挨拶
引退セレモニー 挨拶

今シーズンで引退を決めました。ユースからここまで、22年間色々ありがとうございました。
これまでの監督、コーチ、OB、周りで支えてくれた方々、本当にありがとうございました。
それからチームメイト、中でもジュビロ磐田で共に長くプレーした(山田)大記、(山本)康裕、(小川)大貴。この3人が「まだまだやらなくてはいけない。まだまだ上手くならなければいけない。まだやれるだろう」と思わせてくれました。だからこそ、ここまで長くやることができました。本当にありがとう。
そして今年ジュビロのゴールマウスを守ってきた(川口)能活さん、カジ(梶川裕嗣)、(三浦)龍輝、本当に最高のゴールキーパーグループでした。これからもよろしくお願いします。
そしてジュビロサポーターの皆さん、いつも熱い声援をありがとうございました。本当に力になりました。中には批判的なことを言う方もいましたが、自分自身もっと上手くならなければならない、もっとやらなくてはという気持ちになりました。ちょっとイラっとすることもありましたが(笑)、ありがとうございました。
そして家族。一番の理解者であり、一番のサポーターです。そして最高のサポートをしてくれた妻、息子、娘、言葉では伝えきれない感謝の思いでいっぱいです。これから少しずつ恩返しをしていきたいと思います。そして、今日駆けつけてくれた父、母、兄、僕がプロ選手になれたのも、父、母、兄の力が半分以上だと思います。本当に今までありがとうございました。そして、これからもよろしくお願いします。
サッカーを通してたくさんのめぐり逢いがあり、このめぐり逢いが、最高の財産です。長いようで短い19年間、嬉しいこと楽しいことよりも、辛いことの方が多かったサッカー人生でしたが、最高でした。サッカーを通じて出会えた人、本当にありがとうございました。
そしてジュビロ磐田、本当にありがとう。
またどこかで会いましょう。19年間本当にありがとうございました。

引退セレモニー 挨拶

引退記者会見

hatta
hatta

今シーズンで引退することを決めました。先程のセレモニーでも言いましたように、長いような短いような、今振り返っても19年前を思い出せるくらい記憶もありますし、本当に最高のサッカー人生だったと思います。

――ユースを含めて22年間で色々な経験をされてきましたが、いま一番に思い浮かべるものは?

色々とありますけど、今年のいわき戦に途中から出て勝利に貢献できたことは、本当に今でも鮮明に覚えていますし、やっていて良かったなと思いました。あとは息子がジュビロのDVDをよく見るんですけど、(2010シーズンの)ナビスコカップ準決勝、アウェイの川崎フロンターレ戦(○3-1)はやっぱり勝った人しか喜べないですし、勝たないと上に行けない状況で勝てたというのは自信にもなりましたし、勝って良かったなと今テレビで見ても思います(笑)。

――いわき戦の後、大久保グラウンドで「サッカー人生を懸けた2分30秒だった」と話されていたことが印象的です。あの試合だけでなく、常にサッカー人生を懸けて準備してきたからこその19年間だったと思いますが、引退セレモニーでは辛いことの方が多かったと話されていました。その想いは?

ここ数年は試合にも出られていなかったですし、試合に出ても勝ちよりもたぶん負けの方が多かったと思います。でも僕は勝つためにやってきたし、自分にも勝つためにやってきたし、相手にも勝つためにやってきたし、試合に出たら勝つために良い準備をしたいと思ってやってきました。そういった面で、あまり勝てなかったから辛い思いの方が多かったと思います。でもそのときに一勝でもすれば凄く嬉しかった、その苦労を忘れるくらい嬉しかったです。あとは色々なチームメイトとジュビロでサッカーをさせてもらいましたけど、楽しかったですし、でもやっぱり最終的に僕は上に立ちたかったし、優勝もしたかった。そう考えると悔しかったなと、今振り返ってみても思います。でも本当に最高でした。

――引退を決めた理由や時期は?

「引退するのかな」と思い浮かべたのは4年か5年くらい前です。でもそこからまた巡り合わせがあり、試合に出て、J2で優勝してまたJ1に戻って、また今年も契約という形をもらいました。自分はやれるだけはやりたいなと思っていましたが、「もう、ちょっといいかな」じゃないですけど、その気持ちになってしまったらプロとしてやっていくのは難しいなと思いますし、そういったところですかね。

――ワンクラブマンとして19年間ジュビロでプレーを続けられた一番の要因は?

タイミングもありますし、運もあるかなと思います(笑)。普通にやっているだけでは多分できないことだと思いますけど、色々な仲間が移籍していく中、自分が残ったときに、自分にチャンスが来て、そこで勝ち続ければ自分にチャンスがずっと来るわけで。ベンチになっても、またチャンスが来たときにタイミング良く結果を残し続けられたからかなと思います。でもそれはタイミングや運の力というのも大きかったのかなと思います。

――個人的に思い入れのあるシーズンは?

プロ1年目、2年目は、こんなにきついこと、しんどいことをずっと続けられるのかなと思いました。自分の実力の無さもあったし、体力面もそうだし、頭もそうでしたけど、それがだんだんと慣れていくことによって、自分の力になっていくことを実感できました。だからやっぱり1年目、2年目が印象に残っています。しんどかったですし、(川口)能活さんもいたり、(佐藤)洋平さんもいたり、(松井)謙弥君もいたりして、実力の差があるなと自分の中で感じさせられました。でもそれを乗り越えられたからこそ今があるのかなと思うので、1年目、2年目のときにくじけずにやり続けられたことが良かったかなと思います。

――引退を思い浮かべたのは4、5年前という話がありましたが、その想いを

正直な想いを言うと、(三浦)龍輝の存在がでかいかなと思います。能活さんという大先輩のもとでずっとやらせてもらって、ポジションを取ったり取られたりして、それでカミンスキーという素晴らしいキーパーが来てポジションを取られて、(セレモニーのビデオレターで)名波さんに言われたようにセカンドキーパーという形でいて。でもその後フベロ監督がもう一回僕にチャンスをくれました。2020年のJ2の開幕は僕がゴールマウスに立っていました。その後、試合に出られなくなったときには(杉本)大地がいたり、(志村)滉もいたりしましたけど、龍輝が来たときに正直あかんかなと思いました。プレーの安定感もありましたし、近代的というか足元の技術も凄い優れていたし、僕もそうやって龍輝とか、今で言ったらカジ(梶川裕嗣)とか、足元の技術のある選手とやれて、本当に凄く勉強になったし、自分自身もレベルアップさせてもらったと思うので、龍輝の存在が大きいかなと思います。

――セレモニーの中で山田大記選手、山本康裕選手、小川大貴選手の名前を挙げられていました

大貴も大記も大卒でジュビロに入って、大記はドイツに行きましたけど、大貴は独身のときから色々と誘ったり誘われたりして。康裕はあいつがユースの頃から知っていて、今でも覚えているのは、ナビスコカップのときに(ホテルが)同じ部屋で、あんまり喋らなかったという(笑)。でも今でもずっといますし、ああいう存在がいたからこそ頑張れたかなと思います。

――引退後、どのようなキャリアを思い浮かべていますか?

これまでサッカーしかしてこなかったですし、趣味もサッカーなので、やっぱりサッカーに携われる仕事をしていきたいなと思います。これまで指導者をやったことは無く、また0からのスタートなので、もう一回必死に勉強して、色々な経験をして、色々な人の話を聞きながらレベルアップできたらなと思います。だからサッカーに携わることをこれからもやっていきたいと思います。

――具体的にイメージしている道は?

僕はフィールドプレーヤーではなかったですし、フィールドプレーヤーのような頭の考え方は持っていません。僕はキーパーをやってきたので、子どもたちに自分の経験を伝えられたら良いかなと思っています。

――どういうゴールキーパーを育てたいですか?

ゴールを守れるキーパーです(笑)。

――今日チームが5-0で勝利しましたが、どんな想いで試合を見ていましたか?またセレモニー中の想いを

本当に正直なところ、試合中は自分のセレモニーのことで頭がいっぱいでした(笑)。そして1点、2点、3点と取ってくれたからこそセレモニーに集中ができました(笑)。でも、やっぱり仲間って良いなと思いましたし、仲間ってやってくれるなと思いました。だからこれからも仲間を大切にしていきたいなと思います。余談ですけど、水戸のサポーターの方がああいう弾幕を張ってくれるなんて思っていなかったので、セレモニーでも感謝を言いたかったんですけど、自分が考えてきたことが飛んでしまうのが心配で言えなかったので(笑)、この場を借りてお礼を言いたいと思います。本当にありがとうございます。

――19年間変わらず大事にしてきたポリシーは?

「やる」です。やればなんとかなるじゃないですけど、やらないと何も始まらないし、やらないと課題も長所もわからないし、やっていけば自分の足りないものが分かると思いますし、やっていれば自分の長所が見つかるかもしれない。どんな状況であってもやり続ければ何かが生まれると思うので、本当に何かに挑戦し続けたり、やらないといけないなと今でも思います。だから僕もこれからどういう道に進むかわからないですけど、やり続けたいなと思いますし、やっていきたいなと思います。

――セレモニーの最後に息子さんとPK対決をしていました。2本止めた後に、最後花を持たせるという素敵な演出がありましたね

本当にサッカーが大好きな少年で、ジュビロが本当に大好きで、僕がベンチを外れているときでも一生懸命応援しているんです。ジュビロが勝ったら、ああいうところでワッショイワッショイするじゃないですか。それも一緒にしたいから凄くジュビロを応援するんです。それもやらせてあげたかったし、最後に。で、PKは本当に全部止めてやろうかなと思っていたんですけど、ちょっと泣きそうになっていたので(笑)、空気を読みました。そんなに甘いもんじゃないよ、というところを見せたかったのですが。そんな感じでしたね。

――引退すると伝えたときはどのような感じでしたか?

凄く涙を堪えていました。息子の話を聞いていただいたので一つ言わせてもらいますと、夏休みが終わったときに “夏休みの思い出は?”、“楽しかったことは?”という学校の課題があって。何て言ったの?と聞いたら、「パパが試合に出たこと」って言ったんですよね。そのときに、あぁもっと頑張らなあかんし、見せてあげたいなと思いました。でもこうやって引退セレモニーを開いてもらって、息子や娘にこういう世界だというのを見せられたことは本当に良かったなと思います。会社だったりジュビロ磐田に感謝したいと思いますし、皆さん含め本当にありがとうございました。

――壇上の前に歴代のユニフォームがずらりと並んでいますが、特に良いイメージがあるものは?

そうですね。ピンクはちょっとね、もうおじさんになってきて似合わないから(笑)。息子に言われて今日は紺を着たのですが、どれですかね。全部、かなぁ。決められないですね。去年はピンクで出させてもらったし、今年は緑で試合にちょっと出られたので、息子が今日は紺にしてくれということで今日は紺を着たのですが、全部が思い出です。

――改めて八田選手にとってジュビロ磐田とは?

そうですね、もう本当に人生です。やっぱりユース時代もこの磐田にいましたし、18、19、20と社会人になる年齢のときもずっとジュビロにいましたし、色んなことを覚え始めた22歳や23歳のときもジュビロにいましたし、結婚したときもジュビロにいました。子どもが二人生まれたときもジュビロにいました。僕は地元が三重県なのですが、生まれたところよりもこちらの方が長いですし、そういった意味でも人生です。人生としか言えないくらいのものです。

――ユース時代からずっと八田選手のことを応援してきたジュビロサポーターの皆さんに一言メッセージを

本当にありがとうございました。どんなときも応援してくれましたし、どんなときも支えてくれたと思います。本当に今日、スタジアムを一周したときに凄く1番のユニフォームが目に入りました。本当に色々な人に支えられているんだなと思いましたし、そういった人たちを笑顔にさせないといけないし、それがプロの仕事だなと改めて思わされました。本当に、ありがとうございました、しか言えませんが、感謝の気持ちでいっぱいです。本当にありがとうございました。

hatta